2011年7月6日水曜日

文字起こし  NHKスペシャル シリーズ原発危機 第1回 「事故はなぜ深刻化したのか」

6月5日に放送された「NHKスペシャル シリーズ原発危機 第1回 事故はなぜ深刻化したのか」
を文字起こししました。
放送から、1ヶ月経ってしまったのですが、 文字起こしの途中で、すごく腹が立ってきて、中断していました。
7月3日に「第2回 広がる放射能汚染」がありました。
また、7月9日には、「第3回 徹底討論 どうする原発 第一部・第二部」があります。
あらためて、読んでみると、、、、、、、いやになります。
原子力安全委員会委員長の「3月11日以降の事がなければなぁ」で、、、、怒り爆発します。


関連  文字起こし NHKスペシャル シリーズ原発危機  第2回 「広がる放射能汚染」
関連  文字起こし 「ETV特集 ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発から2ヶ月~」
関連  文字起こし 「ETV特集 続報 放射能汚染地図」
----------------------------------------------------------------------------


NHKスペシャル
シリーズ原発危機
「第1回 事故はなぜ深刻化したのか」



【東京電力・福島第一原子力発電所 正面ゲート】

「免震棟です。」
「はいどうぞ。」

今も立ち入りが厳しく制限されている発電所。
私たちは内部の映像を入手しました。
画面右側に見えてきたのが免震重要棟。
過酷な復旧作業の前線基地です。


【5月30日 緊急時対策室】

2階にある緊急時対策室。
大きなモニター画面は、東京電力本店と常時むすばれ、テレビ会議が行われています。


【福島第一原発所長 吉田昌郎】

事故対応の現場責任者・吉田昌郎所長です。

「いずれにしても、かなり深刻な状況にありますので、そこらへんを、大至急、工程を詰めていく必要があります。」

作業員は、放射性物質を防ぐマスクや防護服を身につけて現場に向かいます。

「やってくっか」

作業員たちが撮影した映像には、今なお収束していない事故の惨状が記録されていました。

「大物搬入口の扉がぶっ壊れちゃってるよ。すごいな、これ」

地震発生の翌日、水素爆発を起こした1号機。
原子炉建屋の上部は吹き飛ばされ、骨組みしか残っていません。

1号機に続いて大爆発を起こした3号機。
近づくと、高い放射線量を警告する線量計の音が鳴り響きます。

4号機。
使用済み核燃料プールから白い蒸気が立ちのぼっています。

わずか5日間で3つの原子炉が次々と”メルトダウン”したと、見られています。
大量の放射性物質が拡散。
事故は世界最悪のレベル7となったのです。

何故、事故はここまで深刻化したのか、食い止めることは出来なかったのか。
私たちは、政府、東京電力、専門家、そして現場の技術者など200人以上を取材、当事者たちが重い口を開きました。

【東京電力常務 小森明生】

「なかなか、想定しにくいと言うますかね。考えしにくい状況、頭を整理して、組み立てるということが難しいほどいっぺんに情報が来てたと、まあ、そういう事態でしたね。」

【原子力安全委員会委員長 斑目春樹】

「みんな、その、え~、自分自身でしっかりチェックしたわけではないけれど、他の人がちゃんとチェックしてくれてるから大丈夫なんだろと。
これは天災ですねと言われたら、私は絶対ノーです。これは人災です。」

【経済産業大臣 海江田万里】

「まあ、やはり、あの~、安全神話というものがありました。緊急事態に対する対応だとか、そういうものが、どうしても、やっぱり、まあ事故なんか起こりやしないだから、実際にはこんなことやったって無駄だよな、みたいな意識が、これは若干あったんではないかな、という気がします。」


安全神話のもとで起きた原発事故。
重要な局面で、当事者たちは、どう判断したのか。
事故を深刻化させた初動の5日間。
その真相に迫ります。



第1回 事故はなぜ深刻化したのか



【事故前 東京電力 福島第一原発】

半世紀にわたって国が推し進めてきた原子力発電。
福島第一原子力発電所は、東京電力が最初に作った原発でした。
深刻な事故は起こり得ないと、国も東京電力も言い続けてきました。
しかし、地震と津波でその前提は崩れさりました。



遅れた緊急事態宣言



【2011年3月11日 午後2時46分】

3月11日午後2時46分、マグネチュード9.0の巨大地震が発生。大きな揺れが5分以上続き、原子炉は緊急停止しました。
原発周辺にある変電所や鉄塔が壊れました。
発電所そのものが停電におちいったのです。
さらに1時間後、高さ15メートルの津波が原発を襲いました。
非常用の発電機やバッテリーが水没し、使えなくなりました。
国も東京電力も想定していなかった事態、各燃料の冷却の為にかかせない電源が全て失われたのです。

この非常事態に現場では強い危機感が広がったといいます。
当時、福島第一原発にいた技術者です。

【福島第一原発の技術者】

「停電で、もう真っ暗になっちゃって、常用の電気が消えて、すぐ非常灯がついて、その非常灯もすぐ消えちゃって。いやー、これは終わりかなと思った…(不明)」

緊急停止した原子炉。
しかし、核燃料は熱を出し続けている為、水で冷やす必要があります。
電源を失うと、水を供給するポンプが止まり、水が蒸発、核燃料を冷やせなくなります。
こうした状況が続くと、原子炉が空焚きになり、極めて危険な状態になります。

原子炉が冷却できなるという、一刻を争う事態。
東京電力が国に緊急事態を通報したのが、電源喪失の1時間後でした。

【午後4時45分 緊急事態通報】

その時、東電本店で事故対応の指揮をとっていたのが小森常務です。
国に通報したものの、冷却機能の一部はまだ動いていると期待していたといいます。

【東京電力常務 小森明生】

「原子炉の注水する機能が、たぶん、動いているだろうというふうには思うんですけど、動いているだろうでは駄目なので、動いてなかった時には、ちゃんと通報しなきゃいけないという事なので…」

緊急事態が起きた場合、東京電力は15分以内に経済産業省の原子力安全・保安院に通報、保安院は官邸に報告し、総理大臣がただちに原子力緊急事態を宣言することになっています。
政府の中で、事故対応の中心的役割を果たすのが保安院です。
しかし、今回の事故では、この段階から既に遅れが生じていました。

NHKが入手した保安院の内部資料。
当時の政府内部のやり取りが時系列で克明にしるされています。
ただちに報告すべき緊急事態。
午後5時30分、保安院が官邸に正式に伝えたのは、東京電力の通報の45分後の事でした。

【原子力安全・保安院長 寺坂信昭】

「現地の情報というものの確認とかですね、それから、まあ、一連の手続きの話もございます。よくない事ではあるんですけど、一定の時間はどうしても、え~、必要なわけでありましてですね…」

保安院を管轄する海江田大臣は菅総理と対応の協議に入ります。

【3月11日午後6時12分 党首会談】

しかし、各党との党首会談で、この協議は中断を余儀なくされました。

【経済産業大臣 海江田万里】

「ほんとに初めての事でもありましたので、え~、そこで菅総理に法律上の説明などもおこなっておりました。まあ、そうしましたら、その途中で党首会談があるという事で一旦、あの~、席をはずされて、で、しばらくされて戻ってきましたので、その、党首会談をまったくせずに、やれば、早くなったかなと…」

【3月11日午後7時3分 原子力緊急事態宣言】

夜7時、政府はようやく、緊急事態を宣言。

【内閣官房長官 枝野幸男】

「くれぐれも落ち着いて対応していただきたいというふうに思います。原子炉そのものに、いま問題があるわけではございません。」

ただちに発令されるはずだった緊急事態宣言。
しかし、実際には通報から2時間以上が経っていました。



”唯一の対策” 電源車対策



緊急事態を宣言した官邸は、どう動いたのか。
官邸の地下にある危機管理センター。
既に、地震や津波の対応が始まっていました。
原発事故への対応は、迅速に意思決定をしようと、限られたメンバーで小部屋でおこなわれる事になりました。
ここでは、情報漏れを防ぐため、携帯電話を使えず、通信手段は有線電話2台だけでした。
集まったのは、総理、官房長官に加え、保安院、東京電力などの事故対応の責任者でした。

電源があれば冷却機能を回復できる。
東京電力が要請したのは電源車の確保でした。

当時、官邸に詰めていた寺田総理補佐官は、電源車を集めることに奔走したといいます。

【内閣総理大臣補佐官(当時) 寺田学】

「まあ、専門家ではありませんので、それ以外のいい方法があるのかということは、素人の人間にはわかりませんけれども、まあ、事業者の東電から、それが必要だといわれれば、最善を尽くしてサポートするというのは、やらなければならなかったと思います。
自衛隊のヘリで吊って、あの、吊り上げて、現地に持っていくことが可能かどうかという事を、サポートとして、あらゆる手段を尽くすようにという指示を受けて動いていました。」

菅総理は電源車の確保をすべてに優先させろと指示したといいます。
電源車で、まず失った電源を復旧、水を入れるポンプを動かして、冷却機能を回復させ、原子炉を冷やすのが狙いでした。

【3月11日午後9時すぎ 電源車到着】

夜9時すぎ、最初の電源車が到着。
その後、茨城や新潟など各地から50台以上が集められました。
当時、事故対応の拠点・免震棟にいた技術者です。
作業の様子を、つぶさに見ていました。

「電源車、来たことには来たんだけど、後、まあ、ケーブルつなぐのに、もたついてましたね。まあ、慌てたというか、電源を持ってくれば済むと思ったんだろうけど、なかなか、うまくいかなかった。」

現場では、ケーブルが届かない、接続口が合わないといった初歩的なトラブルが続出しました。
一部の電源が、ようやく、つながったのは夜10時。
しかし、原発の電源自体が壊れていて、冷却装置が動きません。
ここで初めて、電源車が冷却の役に立たないこと分かったのです。

当時、東電本店で指揮をとっていた、小森常務。
この時、現場の責任者・吉田所長と、次のようなやり取りをしたといいます。

吉田所長「電源をつないでもポンプが動きません。」
小森常務「信じられない。」



「これがですね、本当に、ショックでしたね。
本当に一番、まあ、危機的な状況に、もう入ってしまっているんだろうという…」

官邸に詰めていた、福山官房副長官は、電源確保以外の対策を考えていなかったといいます。

【内閣官房副長官 福山哲郎】

「私は、その時に、電源車の手配に必死になっていました。
総理も電源が確保できれば、なんとかなるのではないかという意識が、最初のうちは、ずっとありました。
まず、電源を回復すると、これはもう、当たり前の話です。電源を回復して冷却機能を復活させればなんとかなると、こう考えられたわけです。

この時、電源喪失から6時間以上が過ぎていました。
国も東京電力も、原発の安全神話に囚われ、深刻な事故の備えを怠って来たことが、初動の失敗を招いたのです。



致命的なベントの遅れ



ヘリの中から「第一原子力発電撮影中です。」

有効な手立てが打てないまま、事態がが悪化していきました。
原子炉をおさめた建物、原子炉建屋の放射線線量が急上昇を始めていたのです。

当時の原発内部の記録です。
午後9時すぎには、10秒で0.8ミリシーベルト。
作業が20分程度しか許されない高い放射線量でした。
この後、所長命令で原子炉建屋の立ち入り禁止になりました。

「やぁ、やっぱり、もしかしたら、相当な被ばくは、まぬがれないんじゃないかという思いがありましたけど。
えぇ、そのあたりから、やっぱ、やっぱり、そのあたりから、だんだん怖くなってきましたね。
相当、これは思ってたより事態は深刻だなということになってきましたね…」

この時、放射能物資を含んだ気体が、格納容器から建屋に漏れ始めていたとみられています。
内部の原子炉の温度が上昇し、圧力が高まっていたのです。
この状態が続くと、核燃料が溶ける最悪の事態、いわゆる、メルトダウンに至るという懸念が強まりました。

緊急事態の際、専門家として政府に助言をおこなうのが、原子力安全委員会です。
そのトップ・斑目(まだらめ)委員長は、新たな対策を急ぐよう働きかけたといいます。

【原子力安全委員会委員長 斑目春樹】

「要するに、メルトダウンを起こしてしまったら終わりだと、だから、メルトダウンを起こさない為に、そういう、その、格納容器ベントをおこなって、それから、消防設備を使って炉心に水を注入する、その手続きを、一刻も早く、急ぐことが大切…」

ベントとは、圧力が高まった格納容器から気体を抜いて圧力を下げる操作です。
圧力を下げれば、中に水を入れる事ができ、核燃料を冷やせます。
早く実施すれば、メルトダウンという最悪の事態を避けることが出来るのです。
しかし、ベントには大きなリスクが伴います。
格納容器からつながる2つの弁を開けなければなりません。
その結果、外部に放射性物質を拡散させ、周辺の住民を被ばくさせるおそれがあるのです。

【3月12日午前0時すぎ 東京電力 ベントを決断】

日付の変わった午前0時すぎ、東京電力はベントを決断。
世界でも実施した例のない非常手段に、社内では衝撃が走ったといいます。

【東京電力本店社員】

「本当にそんなことしちゃうの?そんなに簡単に言っちゃて大丈夫なのかよ。」
「社員にとって、ベントは最終手段。信じられない。」
「ベントをやると聞いた時に、この会社終わったなと思った。」

【免震棟にいた技術者】

「相当危険だというのは、やっぱり、今まで原発の仕事をやっていて、それは分かっていましたので、まあ、その話を聞いたときは、只事じゃないなと感じました。」


【3月12日午前1時30分 政府 ベント指示】

東京電力から、ベント実施の意向を受けた官邸。
午前1時半、東京電力にベントを指示しました。


【内閣総理大臣補佐官(当時) 寺田学】

NHKスタッフ「総理はどんな指示を出したのですか?」
寺田「それは一刻も早くベントをしろと、いう事でしたね。ベントすべきかどうかとか、どういう手段でやるべきなのかどうかとか、議論はほとんどなかったと思います。
とにかく、要請していたと…」
NHKスタッフ「とにかくベントやってくれと…」
寺田「やってくれと…」


【3月12日午前3時5分 共同会見】

午前3時、海江田大臣と東京電力は、共同会見を開き、ベントをおこなうことを明らかにしました。


【経済産業大臣 海江田万里】

「ベント弁を開いて、内部の圧力を放出する措置をとる旨、事業者であります東京電力から報告を受けたところでございます。
発電所から3キロ以内の退避、10キロ以内での屋内待機措置により、住民の安全性は保たれていると思います。」

【東京電力常務 小森明生】

「場合によっては、そこから放射性物質が出るかも知れない。風向きということで、今の風向きは、海側というふうに、ちょっと、聞いておりますので、あまり影響は、さらに、無いのかも知れませんが…
実質的に、ご心配をおかけしないように、ということを考えつつ、判断をした次第でございます。」


海江田大臣「いいですか。はい。」
記者「じゃ、すぐに、これで開放されるんですか?ここを出られたらすぐに?」
小森常務「はい。ちょっと、あの…」
「電力と相談して…」
「官邸にいってから相談し…」


ところが、ベントはその後、いっこうに始まりませんでした。
何故、ベントは、すぐにおこなわれなかったのか。

NHKか入手した東京電力の内部文書、非常時におけるベントのマニュアルです。
電動でおこなう方法しか書かれておらず、すべての電源を失った場合に、どう対応するかについては記されていませんでした。

【福島第一原発 免震重要棟】

免震棟内部にいた、東電の協力会社の社員たちは、ベントをめぐるやり取りを聞いていました。

【東電の協力会社幹部】

「電源がなくてベントの弁が動かないとか、それを動かすためにはどうすればいいとか、やっていたはずです。う~ん」

【福島第一原発の技術者】

「マニュアル通りにしかやらない。不足の事態には対応できないみたいな…」

現場では急きょ設計図を開いて、何をどうすればよいのか、一から検討を始めました。
ベントの為には、暗闇の中、放射線量の高い原子炉建屋に入り、手動で弁を開くしかありませんでした。
その為、多くの時間が費やされたのです。

【東京電力常務 小森明生】

「通常、その、手動でやる訓練なんていうことをするバルブではありませんので、そこは、やはり、躊躇しているんじゃなくて、やってたんですが、あの~、かなりプレッシャーといいますか、そういうふうに感じながら、苦労してたんだろうと思います。」


いっぽうベントの影響を受ける周辺住民の避難の確認にも、手間取っていました。
朝4時、東京電力から地元の自治体に送られたファクスです。
重大事故を仮定した独自の試算として、原発から4.29キロの地点で、最大28ミリシーベルトの被ばくが予測されると記しています。
一般人の年間許容量の28倍の値でした。
この地域の避難の確認をとるのに、朝まで時間がかかったといいます。

住民の避難をめぐり、現場と東電本店の間で議論がおこなわれていました。


【東電の協力会社幹部】

「いつでもできますよ、準備できましたといったら、ちょっと待てと、いま、調整するからと」
NHKスタッフ「テレビ会議で向こう側から?」
「そうそう、そこでいまベントしたら、まだ残っているんじゃないか、町民は全部避難したのかと。それは耳に残っています。」

【免震棟にいた技術者】

「汚染という事態になったら、これはもう、今までのレベル…。
その、地域に対して、まあ、いわゆる、お金を落としていたんですけど、そんなものでは、たぶん、すまないとうのはあったですね…」


現場の状況を把握しきれていなかった官邸。
何故、指示を出してもベントが実施されないのか、いらだちを募らせていました。


【経済産業大臣 海江田万里】

「これはなんで、出来ないんだろうということを、ずっと、私の中では、あの~、そういう思いが強くありまして、そして、まあその、東京電力の人に、早くベントをやってくださいと、いうことを何度も伝えました。
それでも、やはり、待機中に、放射性物質が飛散することが、事実でありますから、そういうことを考えているんじゃないだろうかということで、それなら、国が責任を持って、国の責任のもとで、ベントしてもらおうと…」


【3月12日午前6時50分 政府 ベント命令】

午前6時50分、政府は東京電力にベントに、ただちにとりかかるよう、法律に基づいて命令を出しました。

菅総理は、急きょ福島第一原発に向かいました。

【内閣総理大臣 菅直人】

「東電の責任者と、きちっと話をして、状況を把握したい…」


NHK「菅総理大臣を乗せ、ヘリコプターが官邸を飛び立ちました。」


専門家として同行した、原子力安全委員会の斑目委員長。
機内で原発はどうなるのか、助言を求められました。

菅総理「ベントが遅れたら、どうなるんだ?」
斑目委員長「化学反応がおきて、水素が発生します。それでも大丈夫です。水素は格納容器に逃げます。」
菅総理「その水素は格納容器で爆発しないのか?」
斑目委員長「大丈夫です。格納容器は窒素で満たされているので爆発はしません。」


【内閣総理大臣補佐官(当時) 寺田学】

「総理は、かなり強く、斑目委員長に何度も問いかけていて、議論して、一貫して水素爆発はありません、という話を、その時にはされていました。」

【原子力安全委員会委員長 斑目春樹】

「私としては、格納容器を守ることに集中しているんですよね。で、他の事に、まず第一頭が回っていないというのが、ひとつあります。
格納容器だけは守るべく、ベントを是非、あの、やるように指示してくださいと、ずっと、申し上げ続けてました。」


しかし、この時、原発では予測を超えて、水素が格納容器から建屋に漏れ出していたのです。

【3月12日午前9時4分 ベント作業開始】

午前9時4分、東京電力は、ベント実施の為、ようやく、建屋の内部に作業員を入れました。
政府の指示から7時間半。原子炉の周りは、既に放射線量が極めて高くなっていました。
現場にいられる時間は20分以内、6人が交代で作業にあたりました。
浴びた放射線の量は、最大で106ミリシーベルト。通常の作業環境ではありえない高い数値でした。


【3月12日午後2時30分 ベント実施を確認】

午後2時半、ようやく、ベントの実施を確認。
排気塔から白い煙が立ちのぼりました。


【3月12日午後3時36分】

しかし、およそ1時間後。
建屋に溜まった水素によって、1号機が爆発。
致命的なベントの遅れ。大量の放射性物質をまき散らす、かつてない事態にいたったのです。


【東京電力常務 小森明生】

「かなり、まぁ、ふいをくらったという形には、なったんですけど…
会社としても、まぁ、技術や、あるいは、原子力に携わったものとしても、本当に、痛恨の極みといっても、言い過ぎることはないですね…」

【原子力安全委員会委員長 斑目春樹】

「建物が水素爆発するかも知れないなとは、思いませんでした。正直言って。
で、後から考えれば、ありえることなんですけれども、そういうところに思いがいたらなかったのは、まぁ、申し訳ないけれども、あの、私の、ある意味では実力のなさなのかも知れません。
ただ、あの時点で水素爆発を予測出来た人が、そんなに多くはいるとは思いません。」


【経済産業大臣 海江田万里】

「こちらの意思が、現場にしっかり伝えると、あるいは、その現場の指揮をしている本店に、ダイレクトに伝えるという事が出来なかったという事は、最初の、この動きの中で、大変残念だと思いまして…
諸般の事情があったんだと思いますが、もう少し早く出来なかったのかなという思いはあります。」



問われる国民への情報伝達



【3月12日午後4時ころ 総理大臣官邸】

1号機の爆発から、およそ30分後。
官邸は、警察から一報を受け、確認を急いでいました。

政府高官「爆発は本当なのか?」
東京電力幹部「見間違いじゃないですか。確認します。」

官邸がなんらかの爆発があったと確認し、明らかにしたのは、2時間後。
それまでの間、爆発に関する情報を発表しませんでした。


【原子力安全・保安院】

保安院「ごめんなさいね。えっと、これから説明しますけど、いまねぇ、官邸からいろいろ指示があって…」
記者「起きてることを言ってくれないと」
保安院「わかります。わかります。わかります」
記者「何にも情報もない」
保安院「官邸でまず整理をして、それから指示を出すと言っているので…」

保安院「もう少し待って。官邸の意向もありますので、ちょっと待って…」
記者「わかりますけど、それは…」
保安院「それ、それ以上のことは言えない。」
記者「わかりますけどね」


【原子力安全・保安院の内部資料】

保安院の内部資料です。
この頃、官邸が情報を厳しく管理していた事実が記されていました。
発表は連絡してから発表してくれとの事。


【内閣官房副長官 福山哲郎】

「この情報は、正しい情報だから伝えようとか、これは伝えなくていいのだというような判断というのが、それぞれの情報の信ぴょう性というか信頼性の分からない中だったので…
やはり保安院でなくて、官房長官がやるべきだという声が、政府の責任としてあったのではないかと思います。」


情報伝達の遅れによって、被ばくの危険にさらされたのが、原発近くで住む住民でした。
生後7ヶ月の子どもと避難した女性です。
原発から10キロ圏内住んでいました。
事故以来、6ヶ所の避難場所を転々とし、今は千葉県のアパートで暮らしています。
爆発が起きたのは、親子が自宅近くの小学校にいた時のことでした。

【避難した女性】

「哺乳瓶を洗わないと、次また使えないので、その水をもらいに、もう断水してたので、水をもらいに行くのに、外で並んでいたのですよ。このバケツに一杯水くださいと、並んでいたら、あの、背中のほう、海側のほうから、ボンといったので…
主人が向こうから来て、原発が爆発したから、もう、逃げろっていわれってるから、逃げようという…」



逃げる際に知らされたのは、口にハンカチをあてることだけ。
防災無線の指示に従い、北西に向かいました。
国道は渋滞。普段は30分で移動できる距離に4時間半もかかりました。
当時、国は放射性物質がどの方向に広がるか予測していました。
しかし、この図は公表されず、親子は放射性物質が流れて行く方向に逃げてしまったのです。

「もう少し、こう、逃げる方向も考えて、あっち行け、こっち行けと言って欲しかったという部分もありますいよね。
口に、あの、ハンカチあてて外に出てくださいってしか言われてなかったので、口にハンカチあてるってことは、もう既に、こう、飛んでるんだよねって、こんな子にハンカチあてたら、死んじゃうじゃないって、逆に…
あれで大丈夫ですよと言われても…。じゃあ、本当にね、内部被爆しちゃった分はどうするのって、この子が大きくなった時に、どうすんのって思いますよね。ほんとにね。うん…」


【3月12日午後8時32分】

結局、菅総理が、水素爆発の事実と、それに伴う避難の要請を会見で発表したのは、その日の夜8時半。

「え~、只今から…」

爆発から、5時間がたっていました。

「国民の皆様へのメッセージがあります。」

菅総理「改めて、福島第一原子力発電所を中心にして20キロ圏の皆さんに退避のお願いをすることに致しました。
ひとりの住民の皆さんにも、健康被害といったことに陥らないように全力を挙げて、取り組んでまいります」

避難指示の区域は、3キロ、10キロ、20キロと、次々に拡大。
しかし、安全な避難ルートや、身を守る方法など、住民に必要な情報は、充分には伝えられませんでした。


【内閣官房副長官 福山哲郎】

「現実に、我々自身もですね、あの、その時の状況は、情報が錯綜していたのと、いったいどういった事象だということを特定出来ないで、議論をしていましたので、そこは大変、我々も、あの~、住民の皆様には、ご迷惑と不安をかけてしまった思いますし…
いろんなとこで、おそらく、政府の対応では、いたらないところもあったと思います。」



危機管理 止まらぬ負の連鎖



【3月12日午後9時すぎ】

爆発後の夜9時すぎ。
混乱が広がる中、菅総理が頼りにしたのは、大学時代の友人でした。
情報通信の専門家、日比野靖さん。
科学者として助言して欲しいと、内閣参与に任命されました。


【内閣官房参与 日比野靖】

「3者の、その、東京電力も保安院も、それから、安全委員会の方もね、この先どうなるのかということを、はっきり言われないわけですよね。
これからどうなるかという事について、3者とも何も言わないという事が、総理の不安の点だったと思います。」


連携に不信感をつのらせた菅総理は、外部の意見に頼るようになり、本来、連携すべき組織が、それぞれの役割を果たさなくなっていったのです。


【原子力安全・保安院長 寺坂信昭】

NHKスタッフ「保安院自身の責任ということについては、どうとらえていますか?」
「まあその、そういう、その、準備とかですね。きせい(?)の体系の中で、充分でなかったという部分があるということについては、今回のような異常な危機、緊急事態、これにどのような対応ができるのかというのは、もう一度、しっかり考え直さなければいけないと思っています。」


【3月13日午前5時10分 3号機冷却機能喪失】

1号機爆発の翌朝5時すぎ。
新たに、3号機にも危機が迫っていました。

【3月13日午前11時ころ】

午前11時頃、官邸には外部の専門家などが、次々に呼ばれていました。
この頃、事故対応の中心になっていたのは、5階の総理執務室、そして、隣の応接室でした。
外部の専門家との会合。
出席者によると、この場で深刻な見通しが示されたといいます。

菅総理「3号機は、これからどうなるんだ」
原子力プラントメーカー社長「3号機の建屋も、爆発すると思います。」

水素爆発をいかに防ぐのか、検討されました。

「なんとか水素はぬけないのか」
原子力プラントメーカー幹部「建屋に穴を開けようとしても、火花が散って、引火のおそれがあります。無理です。」



その頃、原発の免震棟で東電本店とのやり取りを聞いていた関係者が、事故の予測データを記録していました。
そこには、核燃料の損傷まで、わずかな時間しかないと記されていました。

【東電の協力会社幹部】

「損傷まで2時間ですね。これね。シミュレーション発表してね。
そういうデータとかいうのは、常に出ています。
これもやっぱり、ベントをして、水を入れないと、水が下がっていきますからね。
下がってね。要するに沸騰しているのと同じですね。」


危機を知らせる重要な情報。
現場では、こうした情報さえ、共有できなくなっていきます。


【3月14日午前7時 自衛隊へ支援要請】

この時、原子炉の冷却作業を支援するよう求められていたのが陸上自衛隊でした。
朝7時、現地対策本部でおこなわれた、政府や東京電力とのミーティングで、3号機への注水を要請されました。
しかし、この場で、水素爆発の危険性は伝えられませんでした。

【陸上自衛隊・中央特殊武器防護隊隊長 岩熊真司】

「爆発は、直接ないというふうないわれ方はしておられませんで、爆発のことそのものが、話題というか、議論にはなっておりませんでした。」



11時前、隊員を乗せた車両が、3号機から5メートルの地点に停車。
車のドアを開けようとした、その時でした。

【3月14日午前11時1分 3号機 水素爆発】

「降りようとした瞬間に、こちらから、ええ、爆風、爆発が、えっと、右側から爆風が来ました。
その瞬間、本当に、目の前が灰色になった状況になったんですが、その次の瞬間には、上からガレキが落ちてまいりましたので…」


ガレキが車両の屋根を突き破り、隊員4人が重軽傷を負いました。
被ばくした隊員たちは、放射性物質を洗い流す為、8回も全身を除染しなくてはなりませんでした。

1号機、3号機の相次ぐ水素爆発、しかし、事態はこれでおさまりませんでした。
これまでにない危機が迫っていました。

3号機の爆発から、5時間後の午後4時すぎの事です。
それまで、大きな声を出して現場の指示を出し続けて来た、吉田所長が黙り込みました。
予想を超える深刻なシミュレーションが示されたのです。

その場にいた関係者が記録していたノートです。
最後の手段のベントが、2号機で出来なくなっていたのです。
圧力が高まり、核燃料が露出するまで、わずか1時間。空だきになって、原子炉そのものが破壊されるという危機感が強まっていました。


【東電の協力会社幹部】

「かなり、ひっ迫しているなと思いましたね。
露出するっていうことは、空だきですから、溶けてるという、溶けちゃうということでは、これで、もう危ないなと思ったですね。」

【免震棟にいた技術者】

「第一原発が終わっちゃった。その時に、ここにいたということは、これでもう、あの~、終わりなんだと…」


この夜、吉田所長は、廊下で休んでいた作業員たちに近づき、こう語りかけたといいます。

吉田所長「みなさん、今まで、いろいろありがとう。
努力したけど、状況はあまりよくない。
みなさんが、ここから出るのは、止めません。」

この日、社員ら70人を残して、200人以上が、福島第一原発を去りました。
2号機がこれまでにない危険な状態にあることは、ただちに東電本部にも報告されました。
官邸によると、清水社長は、現場から撤退したいと、5回にわたって、政府に電話で伝えて来たといいます。


【内閣総理大臣補佐官(当時) 寺田学】

「まあ、まさしく、その、第一から撤退をしたいというような、その時に、撤退という言葉を使っていましたから、撤退をしたいというふうに話があったと、当事者としての責任はあるし、自分たちでは、まかない切れないというような理由付けだったと思います。」


一方、東京電力の認識は、官邸と大きく違っていました。


【東京電力常務 小森明生】

「撤退という事は、そこの緊急時の対策室から誰もいなくなるような事で、申し上げた事は、一度もない。」



【3月15日午前5時35分】

充分な意思疎通が取れない、官邸と東京電力。
早朝5時半、菅総理は自ら東電本店に乗り込みました。

菅総理「お前ら、ふざけるな。
このまま放置したら、どんな事態になるか、わかっているはずだ。
撤退は許されない。
60歳以上の人間は、現場に行って、自分たちでやる覚悟を持て。」


官邸は、東電本店に統合対策本部を設置。
政治家と関係機関を常駐させ、情報の共有を図ろうとしました。
事故発生から5日が経っていました。

この日、2号機と4号機が、相次いで爆発しました。
対応が後手にまわり続けた5日間。
それが事態の悪化につながり、大量の放射物質による汚染を引き起こしたのです、






事故1か月後
政府は、事故の評価を
「レベル5」から「レベル7」へ




事故2か月後
1号機は
”初日からメルトダウン”と発表



【福島第一原発から約3キロ地点】

避難先から一時帰宅した住民が撮影した映像です。
鳴り響く線量計の音。

「家の中でも、これぐらいの線量です。」

家の中は、わずか1日で一般人の年間の許容量に迫るほど高い放射線量でした。
着の身着のまま、ふるさとを追われた住民たち。
避難を強いられた人は、8万8千人にのぼります。



【東京電力常務 小森明生】

NHKスタッフ「安全神話に、とらわれていたという思いはありますか?」
「まあ、その、言葉の部分としては、あまり議論しても、あの、水掛け論になるかもしれませんけど…
災害が来たときに、どうだというような話については、え~、その、メッセージとしては伝えてなかった。だから、自分らの見えてる範囲だけ伝えてたというのを、もし、安全神話というようなお話になると、そういうことになるわけで…」


【原子力安全委員会委員長 斑目春樹】

「3月11日以降の事が、全部取り消せるんだったら、もう、私は何を捨てても構いません。
3月11日以降の事を、全部なしにしていただきたい。
もう、本当に、もう、3月11日以降の事がなければなぁと、もう、それに尽きます。」



【経済産業大臣 海江田万里】

「…全て政治が責任を負わなければいけないものでありますから…
これが安定をして、しっかりとした検証がおこなわれる中で、それこそ、責任は取らなければいけないと思っております。」
「大臣個人としての責任は?」
「もちろん、私も、その責任をまぬがれるものではありません。」


東京電力・福島第一原子力発電所。
今も、2000人以上の作業員が終わりの見えない復旧作業にあたっています。

原発事故は、何故、ここまで深刻化したのか。

取材から見えてきたのは、当事者たちが最悪の事態への備えを怠り、危機を予測できず、重要な局面で、それぞれの責任を果たせなかった姿でした。

国策として進められてきた原子力発電。
事故収束への道筋は、いまだ見えていません。



第1回 事故はなぜ深刻化したのか


NHKスペシャル
シリーズ 原発危機



制作・著作 NHK

0 件のコメント:

コメントを投稿