2011年6月6日月曜日

文字起こし 「ETV特集 ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発から2ヶ月~」

NHK教育で放送された 「ETV特集 ネットワークでつくる放射能汚染地図 ~福島原発事故から2ヶ月~」
この番組内容を、文字起こしをしてみました。 

(追記  7月10日 記載内容の見直しました。修正しました。
そのほか、ディレクター名追記。会話で発言している人を明記。画像貼り付けしました。)

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ETV特集
ネットワークでつくる放射能汚染地図
~福島原発事故から2ヶ月~


【東京】

[木村真三さん(43) 放射線衛生学]

(語り 鹿島綾乃)
東京の空に漂う、放射能を捕まえようとしている人がいます。
木村真三さん。放射線衛生学を研究する科学者です。
福島原発で事故が発生してから自宅のベランダでこの装置を動かし、フィルターに大気中の放射性物質を吸い取ってきました。



【京都】

[京都大学原子炉実験所]

3月15日の朝、東京に初めて放射能が到達した日のフィルターを、京都大学原子炉実験所に送り分析してもらったところ、大量のヨウ素131が検出され、話題になりました。

「ところどころ針のようなものが立っている、この1本1本が、実は放射線核種からのガンマー線を示しています。」



【東京】

木村さんは、なぜ、放射能の動きを調査しているのでしょうか。

「(携帯電話を)見えますか。え~3歳とちょうど半分ですから、3歳6ヶ月ですかね。」

答えは身近なところにありました。

「自分は被曝をしているっていうことも、当然、すごく嫌な気持ちはしましたが、ただ、それよりも、その、放射性生物学的に弱者である子供たちっていうものに対しての、その、危機感ていうのがものが、すごく大きかったですね。」



【福島】

「え~、6号線を爆心地方向に向かっています。」

福島原発で事故が発生してから、木村さんは被災地に入り、放射能の調査を続けてきました。
住民が避難して誰もいなくなった町で、放射能が降り注いだ山間部で、土壌や植物水や雪など、サンプルとして採取しました。



【東京】

木村さんは、かつて放射線医学総合研究所に務め、東海村臨界事故の調査を手がけました。
その後、厚生労働省の研究所に移り、自主的にチェルノブイリの調査にでかけました。
今度の事故が起こると、職場の幹部は自発的な調査をしないよう指示。
木村さんは辞表を出しました。

「今まで、チェルノブイリ、東海村臨界事故、うん、そういうものにず~っと、関わって来た。その、事故というものが起きるであろうという想定のもとにやってきた研究が、一切、そのフィードバックできない。指示が出ないと動けないという窮屈感というものが、ものすごく大きくありました」



【京都】

[京都大学 今中哲二さん]

木村さんの調査活動は友人の科学者たちに支えられています。

(福島から送られてきたサンプルを測定して)
「19.99って…」
「振り切れです」
「振り切れ」
「うんうん、振り切れ」

福島で撮ったサンプルの測定は、京都大学原子炉実験所の今中哲二さんに依頼しました。

「こんなに…」
「…あるはずない…」
「こんな値にはならない?」
「うん、んまあ、そりゃチェルノブイリから強いの持ってきたことがあるけども、ちょっぴりよ。そん時は…」



【広島】

[広島大学 遠藤暁さん]

同じサンプルは、広島大学の遠藤暁(さとる)さんと静間清さんにも送りました。


[広島大学 静間清さん]

「2.4キロというのはすごく強い数値…」




【長崎】

[長崎大学 高辻俊弘さん]

長崎大学では、高辻俊弘さんが最新の測定装置を使って協力します。

「普段よりもかなり強い放射能を持っているんで、大きなデッドタイムが出ているんだなと思います。」



【福島】

[岡野眞治さん]

「そっちも、振り切れてちゃってるのか」

そして、放射線測定の草分け、岡野眞治さんが自ら開発した最新の測定記録装置を使って放射能汚染地図の作成に乗り出しました。
福島原発事故で放出された放射能は、どのような汚染をもたらしたのか。そして、汚染地帯で何が起こっているのか。
これは科学者たちが連携しながら、実態調査を行った2ヶ月間の記録です。




『ネットワークで作る放射能汚染地図~福島原発事故から2ヶ月~』




[3月15日]

「すみません、どちらまでの用ですか?」
「えーと、福島の村田市…」
「福島のむら、村田市?」
「田村、田村」
「田村市か、ごめんなさい。」
「取材ですか?」
「はい」
「はい、わかりました。きょ…ありますね。はい。お気をつけて」

木村真三さんとETV特集取材班が福島に向かったのは、福島第一原発の2号機が爆発した、3月15日でした。
震災直後のこの時期、道路の多くは通れなくなり、街ではガソリンが不足して、スタンドには車が列をなしていました。



[3月16日]

[田村市立常葉中学校]

木村さんはまず、原発から35キロ西にある田村市立常葉中学校を訪ねました。ここで学校長の許可を得て土壌を採取します。学校は放射線の影響を受け易い子供たちが通う場所だからです。
土壌を分析した結果です。9種類の放射性核種が見つかりました。
目立つのはヨウ素131です。量が半分になる半減期が8日間と短いものの、吸い込むと甲状腺癌の原因となります。
量は1平方メートルあたり515万ベクレル。ベクレルとは放射能の量を表す単位です。

「土壌を採取したとこの空間線量率を測っております。大体、2.91から93くらい。マイクロシーベルト毎時。まあ…実際、通常の値から比べると40倍くらいですね…の放射能レベルを検出してるということになります。」

シーベルトは人体への影響の度合いを加味した放射線の量を表す単位です。

3月16日は、大気中の放射線量が最大になった日でした。時折雪が降っていました。
事故後、原発から半径20キロ圏内が避難地域。20キロから30キロの間が屋内退避地域に指定されました。
この日、木村さんは西から東へとサンプリングを進めました。

原発から西へ22キロにある田村市都路町。
この日は避難してくる人々の車が行き交っていました。
この町は屋内退避の地域でしたが、既に脱出した家が多く、街は閑散としていました。

この町の土壌からは、24万ベクレルものセシウムが検出されました。
チェルノブイリでは移住が保証されるゾーンの汚染にあたります。
特に、セシウム137は、半減期が30年と長いため、汚染を長引かせまます。

木村さんは、ここで松の葉を採取しました。 松は放射能をよく吸着するため、サンプリング用の植物として使われます。



【広島】

松の葉は広島大学に送られ、静馬さんによって、放射線のエネルギーを視覚化する装置にかけられました。
松の葉に付着した放射性物質の発するエネルギーは、黄色で、より強い部分は赤で表されます。
都路の松の葉にも強い放射線を発する物質が点在していることがわかります。



【福島】

木村さんは、半径20キロ圏内に入りました。

「そうですね。そろそろ10…10キロ圏ですね。」
「あ」
「ああ、石がある」

「14マイクロを超えました。15マイクロシーベルトパーアワー。ドンドン上がっていってますね。」
「…」
「あっ。もう。すいません。これ振り切ってます。はい。」

木村さんがサンプルの採取を急ぐのには理由がありました。かつて、東海村臨界事故の際に、初動が遅れ、半減期が短くてすぐに消えてしまう放射性核種を捕捉できませんでした。
今回は迅速に採取することで事故のより深い分析に貢献したい。それが被曝の危険を冒す理由でした。

「家の敷地周辺ですが、250マイクロシーベルト毎時。非常に高いです。もう既に、この付近で、え~、チェルノブイリの今の汚染状況、一番高いというレッドフォレストを超えてます」

「ここら辺の地名分かります?」
「えっとね、小林っていうのかなあ。」
「なるほど。さてどこまで行きます。もうこれ、300振り切れてますよ。で、測定限界以上。」

「えっと、今現在、車中のなかでも300マイクロシーベルトパーアワーを超えてますので…。針は一番端ですね。毎時300マイクロシーベルトを超えてますので…」

「あ、橋が落ちてる。あっ、これあの常磐線。」
「これ常磐線なんすか、これ…」
「うん」
「いきましょう」

「40マイクロぐらいですよ。40マイクロパーアワーぐらいですから、非常に下がってますね。だからさっきのところホットスポットだったんですねえ。だから、あの~、サンプリングする所としたら、さっきのホットスポットは、ひとつかも知れません。」

ホットスポットとは局部的に高濃度の放射能に汚染された場所のことです。
木村さんは原発に近い双葉町の中の放射能汚染がマダラ状になっているのではと考えました。
地震の爪痕が残る街の中心を離れ、福島第一原発のある大熊町に向かいます。

「これちょっと。あれ、あれを左に行くと原子力発電所って書いてある道がある。」

幹線道路の国道6号線は地震で断裂していました。
長者原という、この場所からは2.4キロ先の福島第一原発の煙突が見えます。
この日は原発に向かって西風が吹いていました。
放射線量は毎時120マイクロシーベルトでした。

断裂した道路に車が放置されていました。

「車が汚染されてしまって、メーター300マイクロ毎時が振り切ってます。」

行く手が閉ざされた道で、持ち主が逃げ出したあとに残された車。
そこには原発から吹く風を浴び続けた痕跡が残されていました。
原発から4キロの地点に戻り、木村さんはホットスポットと思われる場所でサンプルを取ることにしました。
ここの放射線レベルは毎時300マイクロシーベルトを上回っています。

1号機で爆発が起こった3月12日。とるものもとりあえず住民が避難してから時間が止まったような民家。
ここの土からは、1平方メートルあたり1億6600万ベクレルのヨウ素131。
2120万ベクレルのセシウムが検出されました。
これまでの地点に比べ圧倒的に大きな放射能の量でした。

西から東へ向けての調査が終わると、木村さんは3月20日からは南から北へ向けてサンプリングをしました。

原発から20から30キロ圏内の3つの地点の土壌の放射能の値です。
セシウムを見ると末続町と葛尾村では、およそ15倍の開きがあります。
原発からの距離が同じでも放射能汚染には濃淡があることがわかります。


(報告 大森淳郎ディレクター)

汚染のマダラな分布にかかわらず、原発から半径20キロから30キロのエリアは、一律に屋内退避地域とされていました。
避難判断は住民自身に委ねられ、混乱が生じていました。

日没を待って葛尾村の中心部を訪ねました。
信号機や外灯以外、灯りは見えません。
葛尾村は地震から3日後の3月14日、既に全村自主避難を決めていました。
心細くて、もう宿に帰ろうと思い始めていたとき、山の中腹にポツリと灯がともる家があることに気がつきました。

「こんにちわ。すみません。NHKなんですけれども。」

競走馬を育てている一家でした。


[篠木要吉さん]

要吉さん「結構覚えてるもんだよね、この馬はこうだったとかさあね…」

牧場は篠木要吉さんで5代目です。大正時代から数々の名馬を育ててきました。

要吉さんと長男の裕一郎さんには、村を出られない訳がありました。

要吉さん「うち競走馬の生産やってるんですけど、お産の予定日、とっくに過ぎたのがいるんで…」
ディレクター「はぁ」
要吉さん「とにかく、お産が終わるまでどうにもこうにも動けない。万一事故あった場合には死んじゃうわけだし。そういうことはできないし。生まれてからは、ちょっとは無理でしょうね。」
ディレクター「うーん」
要吉さん「まあ、生まれて、お乳飲めるようになれば、ちょっと避難して、一日一回帰って…、帰って来るくらいで済むと思うんだけども、それまで、ちょっと駄目でしょうね。」
ディレクター「うーむ」
要吉さん「息子には避難して欲しかったんですけど、本人に聞いたほうがいいと思うんだけども。避難しろっていったんですけど。」
ディレクター「うーむ」
要吉さん「嫁さんと孫は会津の出身なんで、これはまず避難してもらって。」
ディレクター「あ、奥さんはもう避難していらっしゃる?」
裕一郎さん「はい。子どもと嫁だけは、その、なんか影響あったら怖いんで…」
要吉さん「こんなきれいなね、自然のこう、いいところに居ながら、どうして、そういうね、汚いものが空から降ってくるのかって、もう、すごい不思議なのよね。」
ディレクター「うーん」
要吉さん「こう、朝起きて、こう、お日様でるじゃないですか。すごいきれいですよね。それが、人も住めないようなね、汚い土地にどうしてなるんだって、ねえ。」
ディレクター「うーむ…」

馬はいつ出産を迎えてもおかしくない状態でした。昼夜を徹しての世話が続いていました。

裕一郎さん「で、ほんとうは、運動とか日光浴もさせてあげたいんですけど…」
ディレクター「うーん」
裕一郎さん「外がこんな状況で、外に出すに出せなくて…」
ディレクター「あー」
裕一郎さん「難産にならないかと心配ですね」


3日後、篠木さんの牧場を訪ねました。

ディレクター「生まれましたか?」
要吉さん「ふっふっ」
ディレクター「どこにいます?」

ディレクター「あー、ほーぉ、生まれましたね。オスですかメスですか?」
要吉さん「オス。」
ディレクター「オス!」
要吉さん「これがあるもんでね、よそいけなかったんだわ」
ディレクター「今後どうされるんですか?」
要吉さん「どうしたらいいんか…」

生まれた仔馬をどこで育てればいいのか、篠木さんは考えあぐねていました。



【鎌倉】

地点ごとのデータを取るサンプリングだけでは、放射能汚染の全体像を描けない。点と点を結んで詳細な汚染地図を作ろうと考え、木村真三さんはある研究者を訪ねました。


[岡野眞治さん(84)]

岡野眞治さん84歳。環境放射能測定の草分けです。

岡野さん「これはね。あの、基本的な…」
木村さん「先生、ここで計られたデータですか?」
岡野さん「これがヨウ素131ですよ」
木村さん「あ、もう検出されてるんですか?きょ、今日の……」
岡野さん「今日、今日、今日。この辺、振ってますよ、結構」
木村さん「ええー!」


岡野さんは終戦後、理化学研究所に入り、日本の原子物理学の父、仁科芳雄さんに師事しました。


[ビキニ調査船「俊鶻丸」1954年]

アメリカによるビキニ水爆実験の後には、政府の派遣する調査船にのって南太平洋にでかけました。


[チェルノブイリ原発事故 調査]

1986年に、チェルノブイリ原発事故が起こると、NHKの取材チームとともに現地に飛び、独自の装置で放射線を測定、記録しました。
その報告は国際的な評価を受けています。


木村さん「あーこれ、先生、重いですね。」
岡野さん「重いけれどもね。」
木村さん「はい、凄いですね先生。」
岡野さん「え?」
木村さん「いや、平気でお持ちになられて。」

岡野さん「今、これはね。元々ね、シンカンイ?(不明)とか?(不明)にとかをつけて、ダンソウ?(不明)を見るのにね、使ってんですよ。」

ケースの中には、筒状の測定器と記録装置があり、時間や位置の情報とともに、6秒ごとに検知された放射線量が記録されます。

岡野さん「こういう事故の時には、事故の現場に行くってのがひとつの方法。」
木村さん「はい」
岡野さん「それからかなり遠くから全体を把握するっていう2つのやり方をしないとね、本当のことが掴めないんだよ」
木村さん「はい」


【福島】
[3月26日]

3月の末、木村さんは岡野さんから借りた装置を車に積み、福島の汚染地帯に向かいました。

「15時57分。スイッチ入れます。」

木村さんは、まず、幹線道路を走りました。
道路の周辺には集落があり、人が住んでいるので放射能の影響が気になるからです。

「サーベイメーター。あっ、振りきってます」
「振り切れてる?」
「3マイクロシーベルト強ですね」
「3マイクロ?」
「はい。4から5マイクロぐらい……」
「あがってきた?」
「はい」
「やっぱ雪の存在じゃないですか、これ」
「雪の存在が高いと思います」
「(雪が)消えました」
「はい」
「下がってない?」
「下がってきてます。」
「うん」
「ただ、下がってきてるけど急激に下がってきてないっていうことは、やっぱり雪で沈着した放射性物質が、もう土壌汚染をしてるっていうような感じ」
「なるほどね」
「はい」
「3.5……3マイクロから4マイクロか。」
「中で4だから、出たら5とか」
「ですねえ」
「あれですねえ、屋内退避レベルですねえ」
「はい」
「多分」

幹線道路を南北に走って測定した放射能のデータを、岡野さんが地図に落としました。
1時間あたり1マイクロシーベルト以下を青。1から2マイクロは緑。2~5マイクロを黄色。5~10マイクロをオレンジ。10マイクロシーベルト以上を赤い丸で記しました。

1千メートル級の山で原発から隔てられた南西部では、放射線量は低く、逆に北部で高くなっています。
国道399号線沿いに極めて濃厚な汚染地帯があることがわかりました。
ここは30キロ圏ラインの境目で浪江町の北西の端にあたります。


[3月27日]

「ずっと、振り切れています。」
「まだ、振り切れてる?」
「うーん」
「なかなか厳しいね」
「厳しいね」


[浪江町 赤宇木]

(報告 大森淳郎ディレクター)

浪江町、赤宇木。木村さんと岡野さんの発見したホットスポットです。
集会場に第一原発近くの町から逃れてきた人がいると聞きました。

「避難所の外側ですが、サーベイメーター20マイクロ振りきれてます。超えてます。」

放射線量は私達の測定器の限界を超えていました。

集会場には4組の夫婦と4人の独身者、合計12人が寄り添うように暮らしていました。
皆、この場所に留まらざるをえない事情がありました。


[吉田稔さん、吉田ゆり子さん]

吉田稔さん夫妻には大切な飼猫がいます。

ディレクター「きれいな猫ですねえ。猫はどうしても避難のバスには乗れ…」
稔さん「連れてけないっすねえ。」
ディレクター「ダメだって言われたんですか?」
ゆり子さん「バスもダメだし、部屋の中も入れられないし、ねえ。」
ディレクター「うーん」
稔さん「猫と心中するほかないですよ。」


[岩倉文雄さん 岩倉公子さん]

ディレクター「地震の時はなにしてらっしゃったんですか?」
公子さん「え~と。うちでコーヒータイムだったな。」

岩倉さん夫婦が赤宇木にとどまったのは、家に残してきた犬と猫に餌をやりに通うためでした。
公子さんの日記によれば赤宇木に来てからの2週間に4回家に戻っています。

公子さん「じゃまた来るからーって言って、帰ろうとすると、犬追っかけてくるんですよぉ。」
ディレクター「…」
公子さん「どうしょうも無いから、すぐに外れるような感じに、くりっと1回ぐらい、グーっと力入ったら取れるように、そうやってきた。次の日、えー20日の日にいったときには取れてましたから。」
ディレクター「外したんですね」
公子さん「うん。追いかけてくれたらこまるからねぇ…」
ディレクター「…」
公子さん「私も、原発に前勤めてた時もありましたねぇ。」
ディレクター「あ~」
公子さん「30代の時に。
  その時は、まあねえ、勤め口があって、みんな、意気揚々としてましたけど…。
  今このような生活を送って、毎日が、夜寝る時も朝起きても虚しくて、悔しくて、原発東電がすんごく憎く思ってます。
  電気がなくとも夜暗くとも、そういう生活でもいいから原発は絶対欲しくないですね。」
ディレクター「う~ん」


遠藤さん「津島支所の遠藤といいます。あの~。今日の夜7時で。後は、いちおう、閉鎖するっていう指示がきておるものですから。」
吉田ゆり子さん「どこですか?」
遠藤さん「役場の支所。ですから後は、連絡こちらにお願いしたいと思いまして。」
ゆり子さん「わかりました。」
遠藤さん「宜しく御願いたします。」
ゆり子さん「ご苦労様でした。」

最寄りの役場の支所が閉鎖されるという知らせでした。

ゆり子さん「そこのあれが、今日の7時で閉鎖するっていうことで…」
ディレクター「最寄りの役場も閉じられちゃうってことですね。」
ゆり子さん「そうですね。」
ディレクター「…また不安ですね。」
吉田稔さん「そうですね。」
ディレクター「うーん」


[浪江町役場 津島支所]

翌日、浪江町役場津島支所を訪ねてみました。
閉鎖されたはずの役場には、まだ職員がいました。
避難先の二本松市から、日中だけここに通うことにしたのだといいます。


[支所駐在 宇佐美和美さん]

ディレクター「ここはどれくらいの線量ですか?」
宇佐美さん「えーとですね、今のところはですね、ただ山際のほうが線量は出てたんですが、ちょっと今んところ私もそのへんは。今日は持ってこなかったです。今日ちょっと朝来たもんで。代わって来ましたから。」
ディレクター「あのこのへん結構、線量高いって聞いてるんですけど」
宇佐美さん「どんだけって高いか。その結局拡散して、高くなってると思うんですよね。まあその辺は、情報とかなにか聞かなくちゃいけないかと思うんですけども…」


集会場の人々の情報源はテレビだけでした。インターネットはおろか携帯電話も不通になっていました。
役場が避難所として認可していないため、支援物資もありません。
食料は農家から分けてもらったり、自分たちで持ち寄ったもので凌いできました。

ディレクター「これは野菜は、なんですか?」
吉田ゆり子さん「えーっと、これはじゃがいもで…」
ディレクター「じゃがいも。」
吉田ゆり子さん「大根で、ネギ、これみんなあの。」

卵は近くの養鶏場が人手不足で困っていると聞き、手伝いに行ったときもらったものです。


その養鶏場を訪ねてみることにしました。

「そのトラックが止まっているところが、そうなんですよ」

「あ~」
「こんにちわ」
「こんにちわ」
「あのね~。NHKのかたね」

[高橋清重さん]

ディレクター「どうもNHKです。取材に…」
高橋さん「こんにちわ。」

高橋清重さんは4万羽の鶏(とり)を飼育しています。一日3万個の卵を出荷してきました。
しかし、原発事故が起こってから養鶏場は危機に瀕していました。
鶏の餌が届かないのです。

高橋さん「エサ運ぶ人も、その、放射能おっかなくて、ここさこねえんだわ。」
ディレクター「あ~、放射能ですか。やっぱり。」
高橋さん「ああ。」
ディレクター「怖いと。」
高橋さん「ああ。」

高橋さん「エサなくてだ~、指くわえて見てんのが切ねえ!」
ディレクター「辛いねえ」
高橋さん「夜眠れなくなっちまう」

ディレクター「餌がほしいから、首突っ込んでますねえ、みんな」

ディレクター「うぁ~」

餓死する鶏も出始めていました。

高橋さん「とさかがド黒くなったものは、死ぬ間近なんだな、これ。
明日、明後日あたりにエサくんねえとこの連中は…」



数日後、再び養鶏場を訪ねました。
鶏の声が聞こえません。
3万羽が餓死していました。


高橋さん「こうやって、だんだん、だんだん増やして、ここまでもってきたのさ…。この姿だから…」


高橋さんがこの養鶏場を開いたのは1950年。シベリア抑留から生還し50羽の鶏から始めました。

原発事故は、そのすべてを奪いました。



[3月28日]

[木村真三さん]

赤宇木の集会所の放射線汚染が、どのようなレベルなのか。
木村真三さんが調査にやって来ました。


「80マイクロシーベルト毎時」
「80?!」
「下のほうがちょっと高いぐらいです。要はこっちの方はちょっと低いくらいですね」
「こんにちわ~」
「こんにちわ~」


集会所の脇の土壌を採取したところ、高濃度の放射能が検出されました。
セシウムだけで400万ベクレル。ヨウ素131は2320万ベクレル。
原発から4キロの山田市の数値に次ぐ濃度です。

集会所の裏手にある畑で、きのこを採取しました。
きのこはセシウムを吸収し濃縮することが知られています。
1kgあたりのセシウムは、42万ベクレル。
食用のしいたけなどの基準値の840倍の量でした。


「これでですね、20マイクロシーベルト毎時ぐらいですね。1時間あたり20マイクロシーベルトという値ですね。」
「この部屋に入る前に外では計ってみましたか?」
「測ってます。計ってて、あの今皆さんが車を置かれているところで80マイクロシーベルト毎時。」
「ぜんぜん違うんですね。」
「はい。家の中はもちろん遮蔽というものが出来てますから、うん、それは幾分かは下がる。3分の1ぐらいに下がったりとかするんですが…、汚染がありますね。はい。」
「…」
「それにしてもこの放射線量というのはどれくらいかというのが、普通に我々が暮らしてても、1時間あたり、えーっと、大体0.06マイクロシーベルト毎時というような値です。」
「…」
「ということは少なくとも、外では、1000倍強、1200倍あるというところに、皆さんがお住いになられているということなんです。避難されているということなんです。」

「飯舘が近いからどうかなーなんては思ってたんですけどね」
「飯舘の3倍くらいですかね。」
「え?!ここ?!」
「はい。」
「ええ?!」
「飯舘より高いんすか?」
「はい。」
「ええ…」
「3倍ぐらいですかね、こっちのほうが高いです。」
「それ誰も知らんないよね、この辺の人。」
「はい…」
「はぁ…、ショックだね、知らないでいたこと。」
「そうですよね。」
「ぜんーぜん、知らないよねそういうことね。」
「で、ここは高いというお話も…」
「知らない。」
「知らなかったんですか…」
「ここ割合、安全ってね…」
「安全ということは聞いてたからねぇ…」
「27キロだから30キロに満たないけど…」

TV「昨日午後にはこれまでで最も高い基準値の3千3百…(略)」


木村真三さんが赤宇木の危険性について話した2日後の3月30日、集会所の人々はこの場所を去ることにしました。

「あの…、木村さんって方が来て、教えていただかなければ、まだまだ、私たちずっとここに知らずに居ましたね。」


赤宇木が計画的避難区域に設定されたのは、彼等が去ってから12日後のことです。
年間の被曝線量が、20ミリシーベルトを越えることが予想され、一定の期間をおいて退避が求められる区域です。
赤宇木はその中でも突出した汚染地域でした。
集会所の人たちは、それを知ることが出来ずにいました。


実は、文部科学省は、2号機が爆発した3月15日から、放射線量の計測を始め、ホームページに公開していました。
15日の計測ポイントは3箇所。いずれも高い数値を示していますが、地名は伏せられています。
計測値3は1時間あたり330マイクロシーベルト。日本の平常値の5500倍です。

添付された地図を見ると、計測ポイントは原発から北西の方向が選ばれていました。
計測値3は浪江町赤宇木付近でした。
文部科学省はこの地域に既に注目していました。
データは官邸にあげられていました。



[枝野幸男 官房長官]

「本日、文部科学省において、モニタリングをいただき、文部科学省から公表される数字について、専門家の皆さんのまずは概略的な、あー、分析の報告に基づきますと、直ちに人体に影響をあたえるような数値ではないと。」

屋内退避地域にある、赤宇木が特別な扱いになることはありませんでした。
文部科学省は、3月23日からは放射線の積算量についても計測を始めています。

赤宇木でそのモニタリングポストを見つけました。
23日以前を考慮に入れると、積算量は集会所の人々が脱出した3月30日までに25ミリシーベルトを超えていました。
屋内にいる時間を考慮に入れても、赤宇木集会所に居続ければ、原子力安全委員会が避難の基準としている年間50ミリシーベルトを数カ月で超えてしまうことは明らかでした。


[浪江町臨時役場(二本松市東和支所内)]

文部科学省の計測データは浪江町にはどう伝わっていたのでしょうか。

[浪江町 馬場有 町長]

ディレクター「今日は、ETV特集といいまして…(略)」
馬場町長「はい、はい…(略)」

ディレクター「この32番というのが、実は、赤宇木の検出量になるんですけどね。もう…(略)」

町はデータの存在を知っていました。
しかし、地名が伏せられたデータを、町は重要視していませんでした。

ディレクター「積算量が突出している…(略)…地名が伏せられているんですけど…(略)…」
馬場町長「ええ、ええ」
ディレクター「そのデータはもうちょっと早くお伝えするっていうのは…」
馬場町長「いや、いやだから、正確な、正確な数字であればね。」
ディレクター「あ~」
馬場町長「正確な数字であればいいんですけども、それは文科省からでてるやつをホームページで、」
ディレクター「うむ」
馬場町長「あの~、とってきたものを私に報告があったっていう…ことであって。」
ディレクター「えぇ」
馬場町長「あの、正確、正式ではないんですよ」
ディレクター「なるほど」
馬場町長「はい」
ディレクター「なるほど」
馬場町長「はい」
ディレクター「逆にその文科省の方からパソコンでアップっていう形ではなくて、」
馬場町長「うん」
ディレクター「町と、町のほうにですね、」
馬場町長「うん」
ディレクター「こういうデータについて正確な報告が、、まあ、なかったわけですか」
馬場町長「ないですね」
ディレクター「うーん」
馬場町長「ないですよ。」
ディレクター「ない」
馬場町長「ただ、ネットで流れてるだけだと思いますけれどもね。」
ディレクター「…」
馬場町長「例えばこういうふうに文科省から正式な文章で、こういうふうな数値になってますと、いうようなことはないですから、情報を提供はなかったです。」
ディレクター「なかった。う~ん。」
馬場町長「なかったです。はい。」
ディレクター「そのこと、どう思われますか?」
馬場町長「うん。だから…どうなんですかね。ええ…、その…、責任の所在が文科省にあるのか、その経産省にあるのか、あの…安全保安院にあるのか、それが一元化されていないですよね。」


赤宇木集会所の人びとの中にはスクリーニングを受けた結果、基準値を超え、除染が必要になった人もいました。
文部科学省に取材したところ、地名を伏せていたのは、風評が広がることを恐れたからということでした。

しかし、最も危険にさらされている人に、その危険を知らせることは最優先の課題だったはずです。
赤宇木は情報が届かない、穴ぼこのような場所でした。



[4月20日]

[岡野眞治さん]

原発から27キロも離れた赤宇木で、なぜ高濃度の放射能汚染が続くのか。
4月下旬、岡野眞治さんが現地に向かい調査に乗り出すことになりました。

岡野さんが車に持ち込んだのは、ビデオカメラに撮った映像に、刻々の放射線量と時間と位置が記録されるシステムです。

画面の下の方にあるバーグラフが放射線量の変化を表します。

更に、この映像には30秒ごとに記録されたスペクトル、つまり、どのような放射性核種があるかを示すグラフが上乗せされます。

例えばこの赤い部分はセシウム134と137のピークです。


[4月21日]

岡野さんは、まず原発から8キロにある浪江町の中心部に向かいました。
赤宇木の集会所にいた人々の自宅がある地区です。
事故後、避難の指示が出され、地震の傷跡もそのままに無人となっています。
驚いたことに映像の中の線量計は、思ったほど振れません。
JR常磐線浪江駅。
ここで測定された放射線量は、1時間あたり1マイクロシーベルト、同じ時期の赤宇木地区のおよそ20分の1です。
岡野さんは、アスファルトの多い町中では、放射能が雨などで洗い流され放射線量は下がりやすいと言います。

木村さん「大体0.8マイクロから1マイクロの間ですから、かなり線量としては低いですねえ。こんなに近いところで、これだけ低くなってるというのは、想像してなかったです。」

浪江の中心部と赤宇木地区を結ぶ、国道114号線を走ってみました。
町中では放射線の値は大きくありません。
やがて道路は緩やかな勾配を登りながら、川に沿ってできた谷間に入っていきます。
20キロ圏を出たあたりから線量が上がり始め、バーグラフは振り切れました。
スペクトルは表示されなくなります。

木村さん「30マイクロを振り切れましたね。40マイクロから、いや40マイクロですね。」
岡野さん「…」
木村さん「先生の、鳴りっ放しということですねえ。」
岡野さん「ピーっていっちゃってるから、これもうオーバーフローと。」
木村さん「はい」
岡野さん「バーグラフは生きてるけどねえ。」

木村さん「はい。高いですね。やっぱり、20キロ圏超えたあたりで40マイクロっていうのはやっぱり高いと思いますよ。
原発前が70マイクロシーベルトパーアワーですので、その半分以上の地点が、あの~、40マイクロですからねえ。」

20キロ圏内が立ち入り禁止になる前日だったため、荷物を取りに自宅に帰る避難民の車が目立ちます。

これは岡野さんの装置が記録した、この谷の汚染状況です。
20キロにも渡り高濃度の放射能が沈着していることがわかります。

岡野さんは、川沿いの谷間では天候の変化が激しいことと関係したのではないかと見ています。

3月12日の1号機の爆発後、風は北向きに吹いていました。
14日の3号機の爆発後、南向きに変わり、放射能はいわき、東京方面に向かいました。
15日朝6時の2号機の爆発後、風向きは北西に変わり、福島市では午後5時に放射線量は急上昇します。赤宇木を襲った放射能はこの風に運ばれたと思われます。

15日、夜半の冷え込みで谷には雪が降りました。狭い谷間に滞留していた放射能は雪に補足されて地表に落ち、土壌や植物に吸着されていきます。

赤宇木の集会所にいた岩倉さんに日記によれば、2週間で4日間、この谷に雨や雪が降っています。
この放射能の流れは、国道114号線が行き着く福島市へと続き、一部は分岐して飯舘村に入りました。

浪江町を貫いた国道114号線から399号線に入り、北上すると、やがて峠にさしかかります。
文部科学省のモニタリングポストが点在するこのあたりも、ホットスポットです。

[飯舘村]

峠を下ると、飯舘村です。
人口はおよそ6000人。働き手の3分の1が農業を営んでいます。


[京都大学 今中哲二さん]
〔広島大学 遠藤暁さん]

ここ飯舘村では、京都大学と広島大学を中心とした学術調査団が3月下旬から汚染状況を調べ始めていました。

今中さん「14」
            「14」
ディレクター「いくつですか?」
今中さん「14。14マイクロシーベルトパーアワー」

調査団は村役場の協力のもと、村内の汚染状況の全貌を掴もうとしていました。
村内の主要道路から130箇所もの地点を選び、放射線量を測定していきます。
汚染の深刻さは調査団の予想を超えていました。

「30!」

今中さん「んー。現実とは思えないね。」

今中さん「私は今ここで起きてる汚染が、どういうものかをきちんと測定して・・・、測定して記録する。そして歴史に残す。これが僕の仕事です」


村の大半は30キロ圏外にあるため、避難地域に指定されていませんでした。
しかし、強い放射線が測定されました。
土壌に吸収された放射性物質の種類によっては、汚染が長期化することにもなりかねません。
調査団は、村内5箇所で土壌のサンプルを採取。放射性物質の種類を特定しました。

4月上旬に公表された報告書です。
130箇所で計測した放射線量から汚染マップが作られました。
汚染は村の全域に及んでいました。
測定された線量には幅がありました。
北部に比べ、赤宇木地区と接した南部一帯は、大きな値を示しています。
土壌からは採出点全てで、半減期30年のセシウム137を検出。
汚染の長期化は、農業が盛んな飯舘村にとっては死活問題です。


(報告 石原大史ディレクター)

いつもなら農繁期となる4月を迎えても、飯舘村の田畑に人影はありませんでした。

ディレクター「ごめんくださーい。」
菅野宗夫さん「はーい」
ディレクター「あ。NHKの…(略)」

多くの農家が田植えの準備も出来ずに入ると聞き、訪ねてみることにしました。


[菅野宗夫さん 智恵子さん]

飯舘村の専業農家、菅野宗夫さんです。
土壌汚染が明らかになり、村では今年は農作物の作付を一切行わないことを決めていました。

智恵子さん「今はね、水に浸している時期なんです。でも、何にもできなくて」

夫婦にとって田植えができなくなったのは、これが人生で初めてだといいます。

智恵子さん「素もみのままだよねぇ、まだ。種もみには罪はないよねぇ。ほんとに、種もみに罪はない。」

智恵子さん「これ全部。これも。タラの木だから、芽が出るとタラの芽になるんです。」

汚染を恐れ、山菜も口にすることをやめました。

智恵子さん「全部駄目!」

大地の豊かな恵みを糧に、暮らしてきた村でした。
放射能がその大地に降り注がれたのです。

宗夫さん「ほんとにあの、清流だから、ヤマメ、イワナがいるわけよ。」
ディレクター「この川に」
宗夫さん「それで4月の1日(いっぴ)解禁なんだけれども。普通なら解禁。ほんとに、あの~、釣り情報誌とか、関係で、ここは、あの~、来るんだよね。ところが今年は全然来ない。」
智恵子さん「ヤマメとイワナがいるんですよ。いっぱいいるんだよ。いるんだよ、ここに!」
ディレクター「天然のですか。」
智恵子さん「そうです。ここに、ここにいる。ここの石ん中に。日中遊んで夕方戻ってくる。」
ディレクター「…」
智恵子さん「ほんとに、いるんだよ。」


(エコ栽培のパンフレットを見せて)
宗夫さん「もう、これがもうだめなんだ。」

菅野さんは農薬の使用を減らした、より安全な農作物を都会の消費者へ届けてきました。それももう、出来なくなりました。

宗夫さん「自然が全て。売り物。
  まあそういう事で情けない、情けない、まったく情けないんだ。
  ほんとに、怒りはもうほんとに、どこにぶつけていればわからないんだけれども、やはりあの、国策だから…。」
智恵子さん「おとなしくしてたんだから…。」
宗夫さん「やっぱり、東電、国、当然。」
智恵子さん「一揆でも何でもやれればいいんだけど…、農家はいっつの世にも、弱いねえ。」
宗夫さん「…」



[菅野徳子さん 菅野慎吾さん]

農家にとって土を奪われることは、生活手段を失うことにほかなりません。
米や葉タバコ、ブロッコリーを作ってきた菅野慎吾さんの一家です。

ディレクター「それ今何の作業をしてるんすか?」
徳子さん「タバコの苗」
ディレクター「これが苗ですか」
徳子さん「葉タバコの」
ディレクター「むしって、どうするんですか、これ?」
徳子さん「捨てちゃうんです(うっ)。生活してんのにどうやって暮らしていいかわがんねえやなあ」
ディレクター「うーん」
徳子さん「収束してくれればなあ、なんとか、どうにかなるんだけど」
慎吾さん「でも、現にもう、土汚れてるから無理だって、ここへ作物作っても…」

徳子さん「雑草だと思うしかねえだよ」
ディレクター「…」
徳子さん「自然消滅っ!」
慎吾さん「ふっ…」

今、家族は決断を迫られていました。
慎吾さんは、幼い子供と妻をいち早く村外へ避難させていました。
母、徳子さんは福島に出て、働く準備を進めています。

ディレクター「ここを出ることに決めたんですか?」
徳子さん「働かなくっちゃいけねえから。とにかく、やっぱり、収入を得ないとやっていけないですよね。苦しくて、生活が…。生活がね、苦しいですよね。うん。働かないと。」
ディレクター「…」
徳子さん「収入ゼロ。専業農家だからゼロです。何も入ってこないです。」

果たしてこの先、農業を続けることができるのか。親子は考えあぐねていました。

徳子さん「なぁ。お母さんの場合は働くと思った。こっから通えっとこ。」
慎吾さん「みんなどうするんだろ。だってそんな事言ったら、ねえ、農業出来ねえ。さあ農業やってる人いっぱい、いんだよ。」
徳子さん「お母さんは農業やんないって。やんの?」
慎吾さん「やんのって…だから…別にあっちに住んでこっちに通えばいいんじゃねえの。農業やれってなってね、やりたいってなっても。」
徳子さん「…」
慎吾さん「それでもいいんじゃない?って思ってるよ別に。」
徳子さん「お母さん、自分でちゃんとはっきりしてるよ。
  自分で仕事と見つける。慎吾も見つけろ、自分で」
慎吾さん「見つけるんのはわかってけど、農業やるって言ったら戻ってきてやってもいいってことや。
  だけど、子どもをここに住まわして、居住を置いてってことは考えてないってこと。わかる?」
徳子さん「うん、わかるよ…。」
慎吾さん「…」
徳子さん「原発さえなかったらなあ…。
  こんなことになんねえのになあ…。
  なんせ原発でなあ、前に進まねえんだ…。
  進まねえ…。」

(窓から外の畑を見ながら)
慎吾さん「その辺、だいたいっすねえ」
ディレクター「ここから見えるのが全部くらいですか」
慎吾さん「あと、あっちもあるんですよ。
  あと結構遠くにおっきい畑があるんすけど。
  ここから20キロくらい離れたところっすか。
  そこはもう、ものすごい汚染なんですけど。」


慎吾さん「実際に被災してるわけじゃないですか。
  全部失って…。ただ悔しいだけですよね。本当に…。
普通に、まあここで農業やって…、子ども育てて…、今度幼稚園に入れて、小学校入れて、普通の環境で…。


大地を汚した放射能、人々が描いてきた夢さえも奪おうとしています。



[4月22日]
[福島市」

放射能を運んだ風の通り道、国道114号線をたどって、岡野さんと木村さんは福島市内に入りました。ここは、30万人が暮らす県庁所在地です。
市内の放射線レベルは、毎時0.5から1マイクロシーベルト。これまでの地域より1桁以上低いですが、スペクトルには、はっきりと、セシウム134、137のピークが見られます。

「高いですか」
岡野さん「そんなでもない。下がってきてますよ。
  むしろ学校の校庭とか公園とか、ああいうところの方がね、
  降ったものがよく分かるんだよ」


[信夫山(しのぶやま)]

木村さん「これは、信夫山になるんですよね。信夫山の脇っていうのが高いんじゃないですかね」

市の中心部に近い信夫山。その山裾の地区で放射線量が上がりました。
木村さんは山の上にある公園を訪ねました。

木村さん「3.3…4マイクロぐらいですね。3.4マイクロぐらいになりますから。やはり、苔とかそういう沈着しやすいものが多いところっていうのは、やっぱり、線量的には高いですね。」


「ちょっとゆっくりいきましょう」
「はい」

市の南東部にある渡利地区。
渡利中学校に近づくと放射線の値が上がり始めました。

木村さん「高いですね。2.2ありますよ」
岡野さん「(略)…増えてるね」
木村さん「あー、グランド。グランドの部分は、あっ。あ、高い、高い。」


[渡利中学校]

木村さん「ちょっとここら辺、ちょっとストップ。」

木村さん「ぼくので、4から4.25の間ですね。」
岡野さん「…」
木村さん「ちなみにこのレベルっていうのは、チェルノブイリの3キロ圏、今現在の3キロ圏と一緒ですから」

木村さん「この正門前って言うのは、ほら、地面がアスファルトですから、え~、沈着って言うのが、雨とか、雨風で流れますので、低くなる訳なんですよ。先程の値よりは下がってますよね。1.47とか。はい。」

岡野さんの装置が記録した、福島市内の汚染地図。
赤色の丸は、毎時2マイクロシーベルト以上を表しています。
町の南北にある山のそばや周辺部の農地で比較的濃い汚染が見られます。
風に乗って入った放射能が滞留し、雪に乗って地面に沈着したと考えられます。


[福島市立渡利中学校]

(報告 梅原勇樹ディレクター)

一人の生徒の姿もない校庭。
渡利中学校では原発事故の後から校庭を使っていませんでした。
3月11日、地震が起きたのは卒業式の日でした。

[齋藤嘉則校長]

続いて、ふりかかった放射能。
全校生徒458人の安全が、齋藤校長の肩にのしかかっています。

「お子様への対応をお願いするってことで、文書で、冷静に行動を起こして欲しいということと、登下校。外に出るときには、帽子をかぶるなどできるだけ肌の露出を少なくするように心がけて、マスクとか口とか鼻を保護するようにしてくださいと…」

校長のメモからは、生徒を放射能から守るための措置が、逆に子どもの心に負担をかけないか心配していることが伝わってきました。

部活動は校舎の中で、放射能を避けるため窓を閉めきって行ないます。
新聞紙を固めたボール。春は中体連の大会に向けてチームを仕上げる大事な時期です。しかしキャッチボールさえ出来ません。

校庭には生徒の足跡の代わりに、見慣れない印がありました。
福島市などが放射線量を計る目印です。

「毎日来て測ってるので。ポイントを…」
「…」
「今頃だとね、サッカーね。サッカー。陸上、ずーっと。あそこ野球をやってます。あそこで野球。もう子供らがね、声出しながら、もう、汗かいて、やれる。やってる状況なんだけども、これだもんね。」
「…」
「いや~。寂しいですよね。いつもの光景でないんでね。」

齋藤校長は今年度で定年を迎えます。
放射能に汚染された学校で、子供たちと最後の年を過ごすことになりました。

「自然の景色は素晴らしいんだけどね。この見えない…ものが、我々の活動を邪魔してるんです!。
毎日戦い。」

4月19日、文部科学省は子どもが1年間に浴びる放射線の限度量を20ミリシーベルトとする基準を発表しました。
そこから、校舎の外の放射線量の上限を毎時3.8マイクロシーベルトとし、それを上回った学校は、屋外活動を1日1時間に制限しました。
しかし、年間20ミリシーベルトは、18歳未満の作業を禁じた放射線管理区域の4倍近い設定です。

「放射能で病気になったりするんじゃないかっていう、やっぱり、先がまだこの子たち長いので。病気が一番心配ですねえ。」

「どうすることも出来ないですよね。正直もう。う~ん。他に移り住むこともできないので。もうここで住むしかないので。避けれるものは少しでも避けてあげたいっていう感じ…。でもあまりにも制限し過ぎても、子どももストレスたまってしまうので、やっぱりこう、ちょっとでも、あの、体力つけさせたり、動かせたりということは、考えてるんですけど。うーん。」

親たちは子どもの被爆量が少しでも下がることを願っていました。


[福島県教職員組合]

「3センチ掘れば大丈夫だって言うけど…、ほんとかよ。」

汚染された校庭の放射線量を下げるという方法があるということを聞きました。
放射能が沈着した福島の土。ここでは、およそ毎時3マイクロシーベルトです。
 地表の土を10センチほど取り除きました。

「変わるべ?」
「1.3、1.4…」
「下がる、下がる…」
「うーん」
「だいたい、ちょっと…(略)」

校庭の土を削れば、子ども被曝量を下げることが出来ます。

「3分の1くらいになる。」
「あー、あー、下がる、下がる。」

いち早く対策に乗り出した自治体があらわれました。原発からの距離が60キロの郡山市。


[4月27日]

[郡山市立薫小学校]

1つの小学校で、汚染が基準値を超えました。
土を3センチ程度削ります。
文部科学省は、1日1時間の制限を守れば、放射能除去は必要ないとしています。
郡山市独自の判断です。

作業後、4.1マイクロシーベルトの放射線量が、1.9に下がりました。
削った土は市内の埋立処分場に運ぶ計画です。


[郡山市 逢瀬町]

4500人が暮らす逢瀬町。
廃棄物を積んだトラックが行き交っていました。


[河内(こうず)埋立処分場]

町の外れにある河内埋立処分場です。
震災後に運ばれる大量の瓦礫。放射能で汚染されていないか、周辺の住民が話し合っている矢先に、土を運ぶ計画が知らされました。
土を削った同じ日、緊急説明会が開かれました。
詰めかけた住民はおよそ100人。
郡山市の生活環境部長らが、土を運ぶことに対する理解を求めます。

「除去した表土については、格別に放射線の濃度が高いということでありませんで、それは……」
(参加者のどよめき、嘲笑。)
「何いってるんだ」

「河内、風評で、今度河内の野菜、米も売れなくなる。
  こんなの持ってきたっちゃ。
  農家いじめだ。とんでもない!
  こりゃ絶対反対!
  皆さん反対ですね?」
(拍手)
「以上!」

「子ども、子どもって、あなた方いいますけども、ここにだって子どもいるんですよ、未来の子どもが。」

「今の原発の問題は、全て東電と国が責任あるんですよ。
郡山市は、それを、なんで東電と交渉しないんですか?
我々と交渉したってしょうがないでしょ。
東電の敷地にもってって、東電のとこに置けばいいじゃないですか。」
(そうだ。そうだ。)
「中止ということでよろしいですね。」

「ええ、わかりました。そのような形で…」
「そのようなってのは?」
「なにをいってるんだか。」
「ですから、皆さんのご理解を頂けないうちは、あそこの河内の埋立には持ってこないと。
それは私の方からお約束いたします。」
(拍手)


【東京】

[4月28日]

汚染された土は校庭に残されました。郡山市長が周辺市長らと共に、支援措置を国に求めています。
しかし国は校庭に保管するよう指示したままです。

福島の親たちは抗議の声を上げています。
国が子どもを守る活動の足かせになっていると、永田町に乗り込みました。


[参議院議員会館]

「え~、福島のですね、校庭の土を、ある学校の校庭の土を、ここに置かせてください。これを見ながらお話し合いをさせてください。」

放射能で汚れた土。
その上に子どもがいる。
文部科学省につきつけました。

「砂場で遊んだり、泥んこで遊んだりするんですよ。その土でですよ。
見てくださいそれを。それがいいのかってことなんです。
良いわけ無いから早く手を打つために、20ミリシーベルトの基準を撤回してくださいということなんです。
これを撤回しないと身動き取れないんですよ。
これじゃいかんと言っていただければ、手を打つんです、みんな。
お願いします。撤回してください。」


[文部科学省 原子力安全監]

「20ミリシーベルトが危険という事ではないというふうに私は思っております。ただし、ただし、20ミリシーベルトでいいとは思っていないので、」
(どよめき、非難)
「できるだけ低くすると、ああ、ええ、このへんは多分色々とご意見あると思いますが、私たちどもが出した通知を守っていただければ、安全上問題になることではない。ということなので…(略)」

ところが、年間20ミリシーベルトという限度量を決めるときに、文科省が助言を求めた原子力安全委員会が意外な発言をしました。


[原子力安全委員会]

「20ミリシーベルトを基準とすることは、これはもう認められない。これはハッキリ申し上げさせていただきます。20ミリシーベルトを基準とすること、これは、もう原子力安全委員会は認めておりません。で、」
(会場ざわめき)
「認めておりません。はい。20ミリシーベルト、年間20ミリシーベルトの被曝は許容しません。子どもに関しては。それははっきり原子力安全委員会として言わさせていただきます。」
「そうしますと安全委員会は、じゃあ何ミリシーベルトまでなら大丈夫だと、いうふうに言ってるんですか?」
「ええ…、申し訳ございません。今の段階では、まだ、その生徒さんが許容できる限度というのは申し上げてございません。」
「今後も決める予定はないんですか?」
「もちろんですね。引き続き検討させていただいて、必要な助言を引き続きさせていただきます。」

「原子力安全委員会は20ミリシーベルトは子どもに浴びさせていいとは認めてないんですよ。どれくらいが適切かというのはこれから考えるって言ってるんでしょ。答え出るまで待ちましょうよ。通常の学校やるのを。」
(拍手)

「子どもを外で遊ばしても大丈夫だと言うのか…(略)」

あいまいな基準に、子どもの健康が委ねられています。

「委員長にも伝えます。」
「地域崩壊、起こってるんですよ!」

20ミリシーベルトという基準は現在も撤回されていません。




【広島】

[広島市 広島大学]

4月。木村真三さんが福島で採取したサンプルを送り、分析を依頼していた研究者たちが集いました。
分析結果を検討する会議が開かれます。

「で、これが、土ですね。」

長崎大学の高辻俊弘さんが、今回採取された50点近いサンプルの特徴を報告しました。土壌サンプルの放射能の値には大きな開きがありました。
例えばセシウムによる汚染は、44キロ地点のサンプルに比べ、4キロ地点では2000倍以上でした。
高辻さんは更に興味深い指摘をします。

「形は同じ地点で採れた土5センチ10センチ、それからこれは似ているという。この成分比は似ているということ。」

高辻さんは放射能の量こそ、まちまちだが、それに含まれる放射性核種の比率はほぼ同じだといいます。
つまりどこで何を採取しても同じ顔の放射能が見つかっているという意味です。


[長崎大学 高辻俊弘さん]

「これは私が昔、チェルノブイリで調査したときには、なかなかその地点での代表的な放射能値が取れない。今回は地点地点ではそんなに分布はない。」

「チェルノブイリと今回の事故との大きな相違点というか、違いというのは、先生、どういうところがあると思います?」


[広島大学 静間清さん」

「やっぱり温度の違い。チェルノブイリの時はかなり高温で、まあそのままドカンといってますので、全部吹き出してるんですが、今度のは、それからじわじわ出たものがひろがってきてる。」


[広島大学 遠藤暁さん]

「だから、それから燃料棒自体が燃えていない。もしくは、水蒸気爆発みたいので吹っ飛んでないから、基本的に揮発的なものが出てきて、それがセシウム、テルル、バリウム、ランカン、その辺になってくる。」

2ヶ月に渡る調査で貴重なサンプルは集まりました。
しかし、原発事故の複雑な様相を読み解くための分析は、まだ始まったばかりです。

「これの確認、どうやっていこうと(略)」




【福島】

「これも振りれちゃうんで。」
「あ、急にあがりましたよ。ここで、ここで30マイクロ。あ、超えた。」

[岡野眞治さん]

放射能汚染地図を作るため、調査を続ける岡野眞治さんと木村真三さん。
徹底的に現場に足を運んで測定してきました。

木村さん「今、60マイクロ超えましたねぇ。60マイクロぐらい」


[東京電力 福島第一原子力発電所 正門]

この日は事故を起こした福島第一原発の正門に向かいました。
入構は許可されませんでした。
木村さんは、いずれは事故現場の放射能調査をしたいといいます。

岡野さん「入れんのか…」


木村さん「すいません、一般道に出てからでいいんで…」
スタッフ「はい」
木村さん「一発、土とって帰りましょうか。ここ敷地内だからまた、怒られるんで。」

岡野さん「けっこう早く動くね。」
木村さん「はい」

原発から1キロにある路上で、木村さんは土壌のサンプルを取りました。
これまで原発構内でしか見つかっていない猛毒のプルトニウムが、この無人となった住宅地の土には含まれているかも知れないと考えたからです。
サンプルは特殊な分析ができる金沢大学に送りました。



[葛尾村]

放射能汚染は、人間の暮らしを根こそぎに奪いました。


[篠木要吉さん]

葛尾村で競走馬を育ててきた篠木要吉さんです。

住み慣れた家を出て、郡山に避難することになりました。
厩舎は、既にもぬけのからでした。
原発事故の後に生まれたあの仔馬は、茨城県の牧場に無償で引き取られました。

ディレクター「ここに赤ちゃんいたんですよね。」
要吉さん「そうですね…。」
ディレクター「なかなか元気な男の子だったじゃないですか。」
要吉さん「ほんとだよね。元気よくてね。うん。で、昨日かな。連絡もらったんですけど、すごい元気でいるからって」
ディレクター「そうですか」
要吉さん「…ということでした。」
ディレクター[…」
要吉さん「どうして…、その…、自分の財産を手放したり、土地を捨てて出なくちゃいけねえとか。凄い理不尽だなって思いますね。」
ディレクター「…」
要吉さん「ましてや、こう何年とか、下手すりゃ何十年も帰ってこれないって…」
ディレクター「…」
要吉さん「だから、本当にね、どうしてそうなんのか。誰か答えて欲しいですよね。」



ディレクター「では、気をつけて。」
要吉さん「はい。ありがとうございます。」

篠木さんは避難先の郡山で新しい仕事を探すことになります。
大正時代から続いた厩舎は閉じられました。



[岩倉文雄さん 岩倉公子さん]

公子さん「こんな格好していってから、犬も猫も、なんでだろと思うだろ。なんで…(略)」

赤宇木の集会所で会った岩倉夫妻が、残してきた犬と猫に餌を与えるため、久しぶりに浪江町の家に向かいました。
20キロ圏内が立ち入り禁止になる1週間前のことでした。
もう、二度と来られないかもしれません。

「桜は満開のようですねぇ。」
公子さん「あ~、満開だ。桜…」
「里は満開…」


原発事故現場からおよそ8キロ。住み慣れた町はいつもの春を迎えていました。

公子さん「猫かな?うん違うか、うわ、猫だ!子猫?ああ、よかしてやりてかったな。」


公子さん「ここです。」

愛犬のパンダは、前回残してきた餌と水で生き延びていました。

「あー、よいよいよいよいよいよい。ほーぉっ。元気だなあ。元気だ、元気。」













(猫を見て)

「あら、なんだなぁ、やせたなあ。いま新しい餌、入れっから。ずいぶんやせたなぁ。かわいそうに、こんなに、やせちゃって…」


滞在時間は1時間以内と決めていました。
時間はあっという間に過ぎます。


別れ際、パンダが自分で鎖を外せるように首輪を繋ぎ直しました。

「食べてっから早く…。」

(出発する車。追いかけて走るパンダ。)





福島で原発事故が起こって2ヶ月、木村真三さん、岡野真治さん、新旧二人の科学者が合作した放射能汚染地図が出来上がりました


調査のために走った距離はおよそ3000キロ。
ついこないだまで、豊かな実りの中で命が繋がってきた大地。
そこに刻まれた放射能の爪痕です。



取材協力 加藤博 山本正儀 小出裕章
語り 鹿島綾乃
撮影 日昔吉邦 井上衛 服部康夫
音声 折笠慶輔 佐藤健康 内村和嗣
音響効果 日下英介
映像技術 眞舩毅
CG制作 高崎太介
編集 西条文彦 佐藤友彦 青木孝文
車両 今井秀樹 丹野進
取材 梅原勇樹 石原大史 池座雅之 渡辺考
ディレクター 七沢潔 大森淳郎
制作統括 増田秀樹 原由美子


ETV特集
ネットワークでつくる放射能汚染地図
~福島原発事故から2ヶ月~

制作・著作 NHK

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